ドキュメンタリー クワイ河に虹をかけた男

クワイ河に虹をかけた男〜最終章・たったひとりの戦後処理〜

太平洋戦争時、元・陸軍通訳として個人的な戦後処理に取り組む永瀬隆さん。

映画{戦場にかける橋}のモデルとなったという、太平洋戦争時日本軍がビルマ方面への補給路目的で建設した泰麺鉄道。約一年三ヶ月後に完成するが食料不足のためコレラ赤痢が蔓延、イギリスなど連合軍捕虜、アジア人労務者が多数命を落とし、のちに多くの日本人関係者がB・C級戦犯になったらしい。
『捕虜、アジア人労務者数万人が犠牲に』のテロップのときにガリガリに痩せこけた褌姿の成人男性の歩く姿、衝撃的です。『みんなガイコツだった』『何度も殴られた』元捕虜の証言。

カンチャナブリ憲兵分隊の通訳として泰麺鉄道とかかわり、連合軍による終戦直後の墓地捜索隊の通訳としても永瀬さん(青年当時の写真イケメンです)は同行。「ここへ帰って弔わねば、自分自身を救うためにも」
1964年、日本人の海外渡航が自由化されてから夫妻でタイを訪れ、それは毎年のように…130回以上にも及ぶ巡礼の旅。
一人の元捕虜『あなたは握手したいたった一人の日本人です』の言葉にうるっときたのも束の間、泰麺鉄道の難所へ巡礼に向かう夫妻を厳しい表情で睨む数人の元捕虜。捕虜時代の壮絶な体験は忘れることなどできない。

夫妻は留学生の受け入れ、タイへ奨学金など私財を投じる。なぜ、そこまで?
それは連合軍側には秘密に行われた、日本軍引き上げの際に全員に飯ごう一杯の米と中ぶた一杯の砂糖をタイ政府が支給してくれたという事実。海軍少佐の遺言『(苦しめられていたはずの日本軍への)タイの暖かい心を絶対忘れては困る』永瀬さんは感涙して語る(みているコチラも胸が熱くなる!)

巡礼を共に行ってきた妻が闘病の末 亡くなり、亡骸にキスする永瀬さん。元留学生も来日して『母』を涙ながら見送ります。
妻の死後一年後に永瀬さんは亡くなります。亡くなる半月前に病床で「2ヶ月くらいしたらタイに行ける、泰麺鉄道が世界遺産になったじゃろ?ビルマの人が喜んどる…」
三年前にクワイ河鉄橋で虹を見たとき、九十という高齢ということもあってかこれが最後の旅とも『天国への橋』とも言っていた永瀬さん。病床にあってもタイのこと、またタイに行こうと…

カンチャナブリの寺院には永瀬さんの銅像があり、そこでお別れの会が開かれました。流暢な日本語で挨拶する元留学生や『来世があるならもう一度お会いしたい』元奨学生たちも、涙、涙、涙です。
「自分が死んだらクワイ河へ散骨してほしい」
その言葉通り、色とりどりの美しい花に包まれ、永瀬さん夫妻を父と母と慕う人々の手によりクワイ河へ…。


いや、こんなスゴイ人がいたんだなぁ〜。戦争モノのドキュメンタリーってこれまでシベリア抑留とか日本人が犠牲になっているものが多かったので、日本軍もヒドいことしてるんですね…まだまだ知らないことたくさんありそうです。

永瀬さんが病院から自宅へ戻る際ストレッチャーで搬送されてましたが、その時いたのが役所の人っぽかったで身寄りがなかったのでしょうか。
妻の遺影の側で眠っているかのような、安らかな顔に号泣してしまいました…(夫妻揃って死後の姿も撮影されてて…いろいろな意味で感動です!!)